昭和40年代の高度経済成長期。時の首相田中角栄が「日本列島改造論」を発表し、日本には活気がみなぎっていた。折りからの好景気と法制面の整備により、互助会システムは多くの人々に受け入れられるようになっていった。 神田忠、28歳。自らの理想を具現化する新しい互助会の設立を実現するため、独立を果たした。設備も資金もないゼロからの出発だったが、神田代表は夢に共感する人々とともに意気揚々と未来を見つめていた。 昭和47年6月14日、山口県下関市において㈱下関市冠婚葬祭互助会(会員事業部門)と㈱西日本サービスセンター(会員への役務サービス/施行)を設立した。
加入口数1万口を超える
当時、下関市内には「㈱山口県冠婚葬祭互助会」を含む4つの互助会が活動していたが、神田代表の活躍ぶりを知っていた山口県冠婚葬祭互助会から合併の話が持ち込まれた。神田代表はこれを好機ととらえて了承した。 しかし、当時人口27万人ほどの地方都市で、互助会の利便性はまだ消費者に理解されていなかった。山口県冠婚葬祭互助会の名称を引き継いだとはいえ、ゼロからのスタートに変わりはなく、戸別訪問で互助会の趣旨を説明した。地道な努力が少しずつ実り、10月は加入口数が1万口を突破。あまりの増加に事務処理が追いつかず、この機会が同業他社に先駆けてのコンピューター導入のきっかけとなった。